母が泣かなくなってから

遅れてきた私を、母と妹は出口で待っていた。私は結局この連休、実家には帰れなかった。何か用があったという訳でもなく、足が向かなくてぐずぐずしているうちに時が過ぎてしまったのだ。
母は、以前とそれほど変わった様子はなかったが、私の夫のことを気にかけてるようだった。「一人で展覧会なんか観に来て怒っているんじゃないの」と無邪気に聞いてくる。母が入院した頃、夫婦関係が冷え切ってしまった。実家にかかりきりだった私を夫は理解できないようだった。それで何度泣いたことか…今はもう涙も出ない。
私は母には夫が失業中のことを話しておいた。多分深刻には受け止めないだろうと思ったからだ。私は話すことで少し気分が楽になる。
その後、親子3人で美術館内のカフェで軽食をとった。母はちょっとしたことでも、吹き出して笑う。脳梗塞になってから母は明るくなった。
入院以前、母はいつも心配性で遠慮深く、物事を悪い方へ考えてしまう性格だった。いつも生きていくのが辛そうだったし、よく泣いて、そしてアルコールに溺れていた。
母の笑顔を見ると、身体の不自由はとても辛いことだけれど、心は自由になれたのかもしれないと思うことがある。今までの人生で失くして来た笑顔を取り戻したかのように。
だけど本当の母の心はわからない。笑うことでしか感情表現が出来なくなってしまったのだから、心の底では泣いているのかもしれない。母の笑顔を見ると、素直に喜べず複雑な気持ちになる。
閉館時間になって、母と妹は美術館へは駅からタクシーで来たのだと知った。確かに地下鉄は便利になったが乗り換えや出口など未整備なところは多い。東京駅からタクシーで2000円程度だと言う。介護にはお金がかかる。でも介護者に負担がかからない方法をとることもまた必要なのだと改めて思った。
美術館の門の前でタクシーの席に母を乗せ、妹と母とはそこで別れた。
親に会うことで私は具合が悪くなるけれど、元気そうな母を見て安心した。会えてよかったと思った。