今後の治療方針と処方箋
今月17日、リタリンという薬が「うつ」の適応から外されることが急に決まり、今月いっぱいで処方ができなくなることになった。保険適応外でも処方ができなくなるので、ADHDの患者さんも突然服用が出来なくなることになる。適応とされたナルコレプシーの患者さんも認定された医療機関と薬局でのみ処方が可能となるため、主治医が変わってしまったり、遠方の医療機関への転院を余儀なくされるだろうと思う。
それは突然の報道によるリタリンバッシングから始まった。以前からリタリンを適切に使用せず、治療のためでなく別の目的で過量服用する一部の人々については問題にはなっていたが、ほとんどの患者は依存も無く適正に服用して、社会生活を維持してきたのだと思う。マスコミが騒ぐとなぜか行政の動きが早くなる。それが多くの患者の不利益になることについての配慮もなく、この2ヶ月テレビでも新聞でも依存症状の恐ろしさだけが報道されつづけ、ただそれだけがクローズアップされて、本当に短い期間で処方が禁止されることに決まったのだ。
私も主治医もこの動きについて、冷静に見てきた。しかし、あまりにも早い決定についに私は動揺してしまった。
私は今まで「働くために」リタリンを処方されてきた。
処方は主治医からの提案だった。初めて処方された時は、その薬の評判の悪さに2〜3日服用を躊躇した。けれど、恐る恐る服用してみたが、特に幻覚が見えるわけでもなく、気持ちが高揚するわけでもなく、ただ、重くだるかった身体が動くようになり、言えなかった言葉が話せるようになり、今まで停滞して苦労してきた様々な事が少しずつ動き出した。気持ちも身体も暗く沈んで労働が出来なかったのが、フルタイムでなんとか働き出せた。
その薬が、今月で処方出来なくなってしまう。私はどうなるのだろう?仕事をしながら、言いようの無い不安が湧いてきて泣きたくなった。
先週、受診したばかりだったが、これからのことを思うと恐ろしくなって、1週間後に予約を入れた。
そして、今日、仕事が終わった夜、いつもより遅い時間にクリニックに行ってきた。
主治医には、いつものような笑顔は無かった。私の訴えを予想しているかのようだった。
私は用件だけまとめて話した。リタリンがうつの処方から外されることを聞いたこと。今後替わりになる薬はあるのか。今後の治療方針はどうなるのか。リタリンを処方されずにフルタイムで働けるか不安なこと。後は、主治医の返答を待った。
その日は主治医はいつもより多くのことを話してくれた。今回の事は異例ずくめで驚いていること。予定では10月いっぱいで処方は出来なくなること。ナルコレプシーとして処方することにも制限がつき、難しくなること。その上で、やはりリタリンは減薬していくしかないだろうこと。リタリンに替わる薬は無いので、別の抗うつ剤を増やしていく事で対処するしかないこと。
私は主治医の迷惑になると思ったので、自分からもう1ヶ月分処方をしてほしいとは言わなかった。主治医が処分されては困るし、今までだって迷惑をかけてきたから。
主治医は、リタリンを通常より短いスパンで減薬することを提案して、だけど今ならまだ処方はできるからと、「何回もするとおしかりを受けるかもしれないけれど」と一瞬笑って、1ヶ月分処方してくれた。私はとても申し訳ない気持ちになった。主治医のクリニックの院長先生はリタリン処方に否定的だと聞いている。主治医の立場が悪くならないようにと祈るばかりだった。この薬についてはきっとこうして患者のためを思って処方している医師が大半だと思う。なぜ、こんなことになったのか、この薬がなければ、生活もままならない患者が来月からどうやって生きていけば良いのか。ただ非難するだけでその後のことには責任を持たないマスコミに怒りを感じた。
私の処方量は1日たった1錠。それをこれから10日間3/4錠に減らして、次に1/2錠にしていく。その間、三環系抗うつ剤のノリトレンを1錠飲み続ける。リタリン減薬中に徐々にノリトレンが効いてくるようにしていく。それで、今までのように働けるのか、それは分からない。でも、ストックは1ヶ月分しかない。やってみるしかないのだ。
受診後、私はお礼を言い忘れて、ただ「すみません」と謝って診察室を出た。
主治医には、本当に感謝している。医師としても人間としても。
今回の事は、薬が必要な人々のことを無視したマスコミが作り上げた騒動だった。多くの医師と患者が困っている事を訴えれば、逆に非難されるという不条理をメディアはどう考えているのか。
薬局で、調剤された薬を薬剤師は無言で袋に入れた。その薬を処方されているものという眼で見られていると感じた。この薬をここで調剤されるのも今日が最後なのだ。
明日から減薬を始める。主治医に感謝しながら、上手くいっても行かなくても、主治医には言えなかったお礼の手紙を書きたいと思った。
アドレスの無いメッセージカード
休日は出かけない事が多くなった。身体がだるくて一日中横になっていても疲れがとれないからだ。
今日は、朝から寒く、雨が降っていた。それでも、私は出かけなければならなかった。彼女がお店を辞める日だからだ。
あの、行けばこころ癒された、散財をわざとしていた、あの洋服のお店に勤めていたスタッフのひとりが、閉店になった後、クリニックの近くのお店に異動になって、時々行くようにしていた。彼女は以前と変わらずに、いつも笑顔で迎えてくれた。
けれど、今月のクリニックの帰りに立ち寄ってみたら、彼女がかしこまって「いろいろ考える事があって、9月いっぱいで退職することにしました」と話してくれた。10月にはリニューアルするお店で働こうと思っていたけれど、友人が立ち上げる会社の仕事を手伝う事にしたのだそうだ。友人とはきっと彼女のパートナーなのだろう。販売とは全く違うお仕事に就くのだと言う。私は彼女の最終勤務日を尋ねて、その日は必ず行くと約束したのだ。
彼女の退職する日、今日は、雨が降ろうと、台風が来ようと、行かなくちゃいけない。彼女にお礼を、さよならを言うために。
今日は中番だというので、昼過ぎ、家を出て、軽い昼食を摂り、彼女へのお別れの記念に何を贈るか考えていた。趣味も分からなかったし、花束が良いのかなと思った。カードをつけて。
駅前の花屋でひまわりの入った明るい感じの花束を買って、メッセージカードをつけてもらった。花束に黄色い小鳥のピックをさしてもらった。新しい仕事が上手くいくように、応援の気持ちをこめて、黄色のリボンの花束になった。
傍のカフェでメッセージを書いた。
『今までお疲れ様でした。いつもお店に来ると笑顔で可愛いお洋服を選んで下さって、心が癒されました。今までありがとうございました。新しいお仕事でご活躍されることをお祈りしています。また、いつかお会いできたらいいですね。』
(続きはあとで書きます)
今年初めて見る花火
昨年は働くことと通院に精一杯で、夏休みを取ることもしませんでした。今年は年休をとって夫のお盆休みに合わせて夏休みをとりました。
ただ、暑くて、何も出来なかったのですが、暑いのでプールに3回行きました。
そのうち1回は、遊園地の花火大会があって、お盆休みということで特別プログラムになっており、プールで遊んだ後は、遊園地の観覧車に乗って時間をつぶし、適当な高台に場所取りをして花火を見ました。
半ば強引に夫をけしかけてプールに通ったのですが、夫も結構楽しんでいるようでした。
花火は有名な花火大会に比べたら規模は小さいかもしれないけれど、間近で見られて思わず、わーっと声を上げていました。
私は昨年の水着がとうとう着られなくなり、ワンサイズ上の水着を買いました。
醜く肥えた身体が日焼けして、髪もボロボロになりました。
そうやって歳を重ねて、いつかプールにも行けなくなってしまうのだろうなと思うと、今を楽しみたい気持ちと寂しさがまざって、閉園時間に風に吹かれて家路に向かう頃、不安定な気分におそわれてしまうのでした。
ゆっくり考えてみる
今日は通院日で、会社が終わった後クリニックに行ってきました。
早めに診察が始まったのですが、結局30分位先生にお話してしまいました。
先月は2度受診してしまいました。仕事の事で耐えられなくなって、当日予約をとって主治医に対処の仕方を相談したのです。
私は精神疾患だと言うことを周囲に話していません。その事で、業務上、精神疾患を伴う症例に当たった時の周囲の反応が辛いのです。医療関係とはいえ、精神疾患の症例は面倒な事が多く、対応には苦労させられます。だから職場ではそういう症例に当たる時に様々な話が出ます。中には偏見ともとれるような話もあります。
私は話の中には入らないようにしています。そうしないと辛くて仕方がないのです。一緒に笑うことなんて、とても出来ず、逆に症例に引き込まれて具合が悪くなることがありました。
先月は主治医にそんな話をしました。
主治医は、病気である私のままでは仕事にならないので、どこかで線引きをして仕事に向き合う事が出来るといいとアドバイスをくれました。つまりは、業務中は、病気ではない自分になって仕事に当たるように仕向けることを提案したのです。
それは、割合上手くいきました。私は元々病気も隠して仕事をしているのですから、もっと完璧に嘘をつけば良いのです。健康なふりをして、精神疾患の症例も、困ったものですね、苦笑し、周囲に溶け込んでいくようにしました。
けれど、心の奥には、常にこれは自分じゃない、病気の人の痛みを感じていました。
そして展覧会の搬入となり、展覧会がはじまりました。
展覧会が出来たのは奇跡のようでした。搬入の2日前まで、吐き気、下痢、脱力感で床に転がっていました。一緒に展覧会をやるんだという気力をふりしぼっての搬入でした。
展覧会は素晴らしい体験でした。16人の作家がそれぞれの作品をその作家らしく展示し、それでいてひとつの展覧会としてのまとまりがありました。作家さんも皆個性的な素敵な方ばかりで展覧会初日の飲み会も楽しかったのです。夢のように5日間が過ぎていきました。
今回、主治医にお話したのは、展覧会が終わってからの空虚な日々についてでした。
展覧会が終わった翌日、夫は新しい職場に就職しました。仕事はある会社の広大な庭園の管理、つまり庭掃除です。今まで夫は何か作る仕事を探していました。何かあやしげなセミナーにも通っていたようでした。それも諦めてしまい、家から近い、その会社に就職してしまったのです。
私は、夫の矛盾した言動に振り回され、治療の頻度も減らしてフルタイムの仕事をしてきました。ところが、あまりにも努力無しに、安易に次の仕事を選んでいることに空しさを感じました。一方で、夫の性格にはその仕事は合っているようにも感じました。
夫が職場でどんな待遇なのか、給与はどのくらいなのか、全くわかりません。夫婦間には相変わらず会話は殆ど無く、携帯のショートメールだけでやり取りが続いているからです。ただ、仕事を始めてから、夫は明らかに寝込んだり考え込んだりいわゆる抑うつ状態から抜け出したようで、表情も明るくなってきました。
喜ばしい変化であると思いますが、私の生活には影響がありました。今まで1人でゆっくり過ごせた朝の時間が侵食され、出勤前の穏やかな時間が失われました。夫が出勤のため朝起きてくるからです。仕方がないこととはいえ、私は切迫感から更に睡眠時間が短くなり、午前3時ごろ目覚めることも多くなりました。睡眠時間の短縮は、そのまま仕事に影響が及び、気絶しそうな眠気に午前、午後と2回襲われるようになりました。
なんとなく不安定ながら続いてきた静かな生活が動き出したことで、なぜか私は憂鬱な気分になってきました。そして追い討ちをかけるように、職場でも新しい派遣さんが配置され、その待遇は、私が1年半かけても信頼を勝ち取れなかったものを全て用意されて迎えられていました。新しい派遣さんは元看護師さんで医療の資格があります。だから信用があるのでしょうか。日々の事務的業務については経験が無いようでも、私よりも重要な仕事を任せられています。そんな、会社の対応が、私の仕事に対するやる気をなくしていきます。
日々、仕事はあります。だけど私の役割って何だろう?私のしてきた事は何だったのだろう?
そうして考えていくと、私は何一つ物事を達成していない、みんな中途半端で終わってしまって、私に残されているものは、病気とその記録を書き記したこのブログくらいしかないではないか…と空しくなってしまいました。
積み重ねても、様々な事情でその先にステップアップできない人生。やりかけたまま、先に進まざるを得ない人生。何も成し遂げられない人生…。ただ、生きてるだけ。
そんな話を主治医にしました。とても話が長くなってしまいました。
私があまりに落胆しているように見えたのか、それとも主治医の優しさからなのか、こんなことを言われました。
「何もできていないと言われるけれど、お母さんの事で大変な時期に展覧会をしたりしましたよね…。少なくとも大きな仕事を平行して出来ているではないですか」
主治医が2年以上も前の話を覚えていてくれた事に驚きと共に感謝しました。
先生は私にこんな励ましをかけることはめったに無いのです。普段は全く別のアプローチで間接的に気づきが生じるように仕向けるのだけれど、あまりにも何も出来ていないことを嘆くので内心あきれてしまったのかもしれません。
「これまでは生活のために仕事を続けていくことが問題になっていましたが、旦那様の就職でその心配から少しは解放されて、お仕事を含めてこれからのことは時間をとって考えていければいいですね…」
そんな感じの事を最後に言われました。
私の存在価値みたいな事を考えると、生きている価値が無いように感じて、それが生活の変化でわあっと噴出し不安定になっていました。
主治医に心の内を話せたことで、問題は解決しないけれど、少し落ち着きました。
私の気持ちをぶつけられた主治医は、しんどかったと思います。本当にお疲れ様でした。
診察室を出ると、掲示板の番号が消え、私が今日の最後の患者だったことがわかりました。午後7時半を過ぎても都心はまだ日中の熱気が残って蒸し暑い風が吹いていました。
ブログは再開したいと思います
このブログを楽しみにしている方はごく少数か、いないと思うのですが、続けることが大切なのかなという結論に至りました。
職場では、ごく普通に忙しく時間が流れていきます。もしも私のことを知ってしまった方がいらっしゃるのであれば、何事もなかったような対処に本当にありがたく思います。
クリニックにも行って先生とお話もしてきました。
先生は、自分のブログだから、周囲のことより自分の考えで決めたら良いというお話でした。どちらかというと、ブログには否定的なのかも知れません。
私はここで本当に救われてきましたので、ゆっくり続けていこうかなと思います。
展覧会は無事搬入も終わり、初日にもたくさんの方のご来場がありました。内容の濃い展示になっています。
一時、仕事から離れて、美術の側に自分の身を置いてみて、冷静に考えることが出来た気がします。
取り急ぎ、状況報告でした。
記事は随時追加していきます。
こちらを見てくださった方々、ありがとうございます。
ご迷惑かけます。生暖かく見守っていただければ…
検索されて来られた職場の関係の方がいらっしゃるようなのですが…。
私はこんな変な女です。最低です。病気です。だらしないです。
でも、お仕事は精一杯ご迷惑かけないよう、頑張っているつもりです。
気に入らないことがありましたら、晒していただいても構いません。仕方ないです。私がこのようにブログを書いているのは事実なので…。
私はここで、たくさんの見知らぬ方から助けられ励まされ生き延びてきました。ですので、ここを閉鎖するつもりはありません。続けることが、感謝の印でもあるからです。
もしも、気づかないふりをしていただけるのなら、本当にありがたいと思います。私の知らないところで話題にされるのは構いません。堪えられるだけの精神力とサポート体制は持っているつもりです。
今回は展覧会のことを多くの方に知っていただきたかったのですが、その他の記事に対して、様々ご意見があるかと思います。
なにかございましたら、コメントをいただければ幸いです。コメントは匿名で投稿できます。よろしくお願いいたします。
グループ展をします
以前、ここに書いていたように、2007年6月26日〜7月1日まで、東京の練馬区立美術館企画展示室でグループ展をします。
主催者の山田徹さんが急病で参加できなくなり、タイトルの変更がありました。いろいろギリギリのところで準備しています。
もともと「リアルブレンバスター」というタイトルで、山田さんが主催者となりアーティスト一人ひとりに声をかけ集め、ひとりで運営を続けてきた企画展でした。山田さんが参加できないことになって、この展示もタイトルを変更しなくてはいけないのでは、という声が上がりました。山田さんが急病で出品できないとの報をうけた他のメンバーは、一人も辞退しませんでした。山田さんの人柄が山田さんしか共通項のないメンバーをつなぎとめたのでしょう。
このグループ展のタイトルは、そんな山田さんへのメッセージとして、→Y(やじるしわい)と決まったそうです。山田さんには早く元気になって活動を再開してほしいと願っています。
もし機会がありましたらご覧いただければうれしいです。
以下、展覧会のプレスリリースです。
→Y(やじるしわい)
現代美術作家16人展
現在活躍中の若手現代美術作家16人による展覧会を開催いたします。
本展の展示作品は、現代美術の絵画(油彩、水彩、アクリルなど)や写真、コンピュータグラフィックスなど幅広いジャンルから構成されています。
先鋭16人のそれぞれの作品世界に触れるとともに、今日の多様に展開される現代美術の表現手法を一堂に観覧することが出来る絶好の機会となります。
出品作家(五十音順)
浅野 満 Mitsuru Asano
麻生知子 Tomoko Aso
稲葉有美 Yumi Inaba
上畠益雄 Masuo Uehata
亀井三千代 Michiyo Kamei
川端希満子 Mamiko Kawabata
後藤元洋 Motohiro Goto
佐川 悟 Satoru Sagawa
鮫島大輔 Daisuke Samejima
瀬沼俊隆 Toshitaka Senuma
高橋香織 Kaori Takahashi
内藤範子 Noriko Naito
西村陽一郎 Youichiro Nishimura
原田あづさ Azusa Harada
水野 亮 Ryo Mizuno
森井宏青 Hiroharu Morii
会場:練摩区立美術館 企画展示室
日時:2007年6月26日(火曜日)から7月1日(日曜日)まで
午前10時〜午後6時(入館は5時半まで)
(初日は午後2時より。最終日は午後4時まで)
入場無料
掲載にあたり、高解像度の写真データが必要な場合は下記までお問合せください。
宜しくお願い申し上げます。
→Y実行委員会
担当:上畠益雄
〒222-0022
横浜市港北区篠原東3-28-24
スイートヒルズ B-101
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