迷いの森の中で…

夫の代理診察が終わって、気が抜けたように疲れ、喉が異常に渇いた。
私はいつものようにコーヒーを買ったが、氷のいっぱい入ったアイスコーヒーにして、氷まで食べた。
1時間ほど、メモを書きながら休憩し、私の診察予約時間になった。もう夕方になりカーテンの上がった診察室が増えていき、私は最後から2番目だった。
前の患者さんが1時間近くかかっていた。多分、この病院に残る患者さんなのだろう。主治医はこの病院に勤務してかなり長かったから、長く診てきた患者さんとのお別れには時間がかかるのだろう。診察室から出てきたその患者さんは深々と頭を下げ主治医に礼をして立ち去った。いつか、私も主治医との別れが来るはずだろう。その時、私はどんな気分になるのだろう…。
最後から2番目、私の名前が呼ばれて診察室に駆け込む。その時主治医は扉を開けたまま私が中に入るまで待ってくれる。このスタイルのはじまりも、あと1回でお別れだ。
時間が押していたけれど、主治医はとてもゆったりした雰囲気で穏やかに微笑んで迎えてくれた。いつものように「さて、どうでしたか」とゆっくり話を切り出した。
私は主治医の、いつも変わらないこの面接の始まり方が好きだった。声が出せないほど打ちのめされている時も、涙が止まらない時も、そして緊急事態の時も、落ち着いた穏やかな低いトーンの声でこちらの準備が整うまでじっと待ってくれる。主治医の声で私は心を開く覚悟をする。今までの治療関係から築かれた主治医への信頼感があってこそ、いま、この診察室という限られた空間で心の奥底の闇に光を当てることが出来るのだと思う。
はじめに自分の仕事が年度末になり忙しくなったこと。それにより、午後の眠気がなくなってきたことなどを話した。仕事を続けることの空しさや疎外感など話したいことはあったけれど、いま私の上に起こっている心の変化を、いま話すべきだと思った。夫のことだ。
精神科の医師に相談した話をかいつまんで話した。統合失調症というより発達障害の可能性があること、本人が受診するように困らせなければいけないと言われたこと。
主治医は家族面接の時、夫と面会している。だから、夫のことは少なからず記憶はあるだろうと思う。主治医は精神科医の見解を興味深く聞いていた。カルテの手を止めて私の話にじっくり耳を傾けていた。
私は、精神科医が夫を追い詰めるように仕向けることを勧めたことについて、複雑な心境にあることを話した。そうすることが本人のためとは言え、私が病気になったことで夫は十分苦しんでいる。これ以上夫を追い詰めることが心情的に出来ない。追い詰めて本人が困って、例えば自らの生命にかかわることになったら、あるいは生活が立ち行かなくなったら、その時は病院や行政が支えてくれるはずだけれど、そうやって、いま微妙なバランスで成り立っているこの生活を壊してしまっていいのか…私にはわからないと。
夫に愛情があるというのとは違う、何か同士としての絆のようなものを自ら断ち切る怖さ…話しながら私は声が震えかすれていくのがわかった。動揺しているのがわかった。
その時、私は主治医の表情を見て、はっとした。今まで見たことのないような、苦悩に満ちた表情をしていた。私がそんな表情をさせるようなことを話したのだろうか。
これからどうして良いのかわからない…そこから先は話すことが出来なくて沈黙が流れた。
「壊してしまう…精神科には…底をつくと、何か流れが変わるという考え方をするのでしょうね…」
主治医はいつものように穏やかな表情で微笑みながらそう言った。
壊せとも、壊すなとも、どちらを勧めるでもなく、私が迷っているそのままを支えてくれている気がした。その言葉で、私は少し安堵し、これから向き合わなければならない未来を抱えられるような気がした。
次の診察予定を入れる中で、来月以降についてどうするかという話になった。
3つの選択肢があり、1つはこの病院に残り、後任の医師にかかること。殆どの患者さんがその選択肢を選んでいるそうだ。2つ目は主治医の異動するクリニックに転院すること。この選択をする患者さんは少数派だそうだ。3つ目はこの病院でも主治医の異動するクリニックでもない、全く別の病院へ転院すること。これはとても稀だけれどいるのだそうだ。
どうしますか?と尋ねられて、私は少し迷った。新しいクリニックでは主治医は心療内科医ではなく、精神科医として診療をする。保険点数が違い、今までのように格安で十分すぎる時間の面接は出来なくなる。それでもいいのか?
一呼吸おいて、「移動します」と答えた。やはり主治医にこれからも心の問題を託したい。今までの治療関係を続けたい。もしも続かなかったら、その時は考えればいい。
「それでは…」
主治医は新しいクリニックのパンフレットのコピーを取り出して丁寧に折り、差し出して見せた。新しいクリニックの名前、場所、そして院長先生の名前…その先生は、以前この病院の心療内科の主任医長をしていた先生で、多分主治医の指導医をしていた先生だろうと思う。予約の方法や主治医の担当の時間と曜日を書いてもらった。
新しいクリニックの話になると、主治医の表情が明るく楽しそうに見えた。敬愛する先輩の下で再び診療が出来ることがとても嬉しそうだった。
私はそんな主治医を見ながら、このお世辞にもきれいとは言えない市民病院の主治医の居る狭い診察室が、今まで私の心の拠り所だったのだと、感傷的な気分になっていた。
薬の量は、初めて投薬を受けた時くらいに少なくなっていた。特に夜には全く薬はなくなった。私も薬の量にこだわらなくなっていた。そうやって薬からも主治医からも離れていくのだろうか…。
診察が終わって退室する時、主治医は「じゃ、また」と言った。
それはこれからも担当することになるからそう言ったのだろうけれど、私には何か主治医が遠くへ行ってしまうようなお別れの言葉のような気がして、物寂しく思えた。
主治医からもらったパンフレットにはホームページが案内されていて、帰宅してから見たけれど、あまりに院長先生の理想が整然と具現化されていて、近寄りがたいイメージが頭から離れず、自分のとった選択に間違いはなかったか何度も考えた。
夫はいつもと変わらず夕食の準備をして待っていた。私は診察の内容は夫には話さず、普段と変わらない態度で接した。夫も私に何か聞こうとはしなかった。
1日に2回の面接はさすがに疲れてしまい、あまりの倦怠感に暫く床に転がって少し眠った。