駅近くの画廊で…

友人の紹介で画廊のオーナーに作品を観ていただく機会をセッティングしていただいた。彼は3年前個展がきっかけで知り合ったアーティストだが時々お互いの近況など連絡しあっている。純粋に厚意で時間を割いてくれる友人がいることは幸せな事だと感謝している。
その画廊は駅近くの電車の音がよく響く場所にあった。入り口を開け放していると外の喧騒が会話をかき消してしまうほどだ。
私はその白いシンプルな画廊で今開催されている個展の作品を拝見させていただきながら、画廊の雰囲気を探った。アンシンメトリーな白い空間は、床面積が狭い割りに天井が高く圧迫感は感じなかった。ただ、給湯やトイレすら排除された空間は厳しさも感じた。
画廊の中央に小さなテーブルと椅子が置かれ、そこに座るよう促された。
私はついさっきまで胸を掻き毟って作品のファイル作りをしていた。未知の人に会う緊張感、自分の作品の評価への恐怖感、漠然とした不安…様々な思いが整理できずに頭のなかで混乱していたのだ。
対面するオーナーさんは穏やかな中年の男性だった。
私は作品のファイルと3つの小品をテーブルに並べた。
沈黙が流れる。私はそれが怖くて作品とは違う話を始めてしまった。病気のことである。
他人に、それも初対面の人に、自分が精神障害を持っていることを話すことは普通しない。そうしないことがお互いにとって良い事だと思う。何もありのままの自分を知ってもらいたいなどと望むのは自分のエゴだろう。相手も驚くだろうし人によっては恐怖を感じるかもしれない。
けれど、何故か私は話してしまった。音が聞こえること。あるはずの無いものが見えること。
オーナーも友人も普通に話を聴いてくれた。そして話はさらに薬に進んでいく…。
オーナーは私のファイルと作品を丁寧に観てくれてこんなことを言った。
「あなたには自分を認めてもらいたいという強い気持ちを感じます。作品にもそんな感じがします」
言われて最初はピンと来なかった。私に自己顕示欲があるのは作品を発表する時点から理解はしていた。だけど「認めてもらいたい」と強く望む意識はしていなかった。だけど、他人からはそう感じ取られていたのだろうか。
作品を世の中に出す時、私は孤独だ。一緒に発表する仲間も本当は居ないし、グループ展でもなにか疎外感を感じてしまっていた。自分に出来る事はこれしかなくて、何を言われてもこれしか出来なくて、だから出す時は半分やけになっていることもある。それが、本当は「認めてもらいたい」気持ちの表れだったのだろうか。。。
オーナーは私の作品に興味があるし、作品を発表したいと思うならいつでも作品を持ってきていいと言ってくれた。事実上の審査通過である。
「でも、あなたは期限をつけないほうが性にあっているのではないですか?作品が溜まったら発表されるのがいいと思いますよ」
多くのアーティストを見てきたオーナーの指摘は鋭いと思った。私もじっくりと作品をつくりためてから発表する方が精神的に追いつめられずに済む。有難い言葉だった。
用件が済んで友人と一緒に帰るとき、病気の話をしたことを後悔した。自己嫌悪に陥りながらだからこそ「認めてもらいたい」気持ちがあの画廊で噴出したのだと思った。
朝からの激しい雨は上がり、むせるような湿気が駅前の喧騒を抑制しているようだった。
月曜日から躁状態で苦しみつつやってきた課題がひとつ済んでほっとした。
不思議ないちにちだった。