ありがとうと言われて…

野ばら

母の日は、私の介護当番の日だった。
プレゼントのトパーズの指輪は金曜日に届いていて、電話したらもう身につけていると母は笑っていた。もっと濃い藍色が良かったけれどキレイだよと。
昼食の準備と母の好物のシュークリームを買って、雨上がりの実家へ。
母は落ち着いていて、ここに来るのに時間が掛かったでしょう。悪いね…と笑った。
指輪は動かない左手の薬指に輝いていた。思ったより綺麗な青い指輪だった。
食事を出して、落ち着いたら、父に頼まれていたカットサロンに母を連れて行かなければならなかった。母の髪は少し伸びていて短くしたいのだと言う。
丁度雨も上がっていたので、車椅子で連れて行こうと、母を着替えさせ、外出の準備をしていると、父が帰ってきたので途中まで車で送ってもらった。
ヘアサロンに車椅子で入ると、居場所が無かった。母は杖をついて立ち上がり、椅子に移った。私は急いで車椅子を畳んだ。視線を感じた。
美容師さんは普通に接してくれたけれど、はじめ母と意思の疎通が出来ないのではないかと思ったようだ。私にどうしたいか聞いてきた。私は母にどうしたいのか尋ねた。それで分かったのか、美容師さんは母に話しかけた。
同じ老人でも介護者が要る人とそうではない自立した人では、印象が違うのだろう。仕方の無いことだが、その度に母は傷ついて来たのだろう。切ない気分になった。
母がヘアカットされている間、私は母をずっと見守っていた。その様子が気の毒に映ったのか、母が急に私を見て笑い出した。笑いは止まらない。母が笑い出す時、それは悲しい時。自分が動けなくて娘に介助されなければ髪を切りに行くことも出来ないことが辛かったのだろうか…。
母は髪を短く切ってさっぱりした様子だった。けれど、本当はこんなに短くしたくなかったのだ。「ヘルパーさんが髪を洗うたびに、伸びたね、と言われるから、面倒がられるから短くしたい」おしゃれさえ、制限されて遠慮して、母は本当に悲しい気持ちだったのだろう。
帰宅して、自宅に帰るとき、母は私に「ありがとう」と言った。
私は言葉が出なかった。
次第に私の母ではなくなってゆく母を、それでも私はあなたの娘で、お母さんなのだと。
私の存在はあなたが居なければ無かったのだと。
どうしようもない思いを胸にしまった。
お母さん、ありがとう…。