医師の立場ではご家族より患者さんを守ります

空白の予約カードが悲しくて、そして、私は主治医の治療を受け続ける事が出来るのか不安が募り、3時間待ちと言われたけれど、予約外で心療内科を受診することにしました。
順番が来たのは、お昼も過ぎて午後2時半をまわっていました。主治医は白衣の下に淡いきれいなオレンジ色のシャツを着ていました。診察室は午後の光に満たされて明るくあたたかな雰囲気でした。
私はカードの空白がとても悲しかった事と主治医がもう私を看たくないと思っているのではないかという気持ちを確かめたかっただけのためにここに来たようなものでした。それでも、直接その気持ちを伝える事は出来なくて、「次回の診察の日時が…カードに書いてなかったので、確認なのですが3週後でいいのですよね?」と遠まわしに聞いてみました。主治医はすぐに何か気づいたのだと思いました。「あの時、決めましたよね、3週後の…ですよ。それでよかったですよね」と切り替えされてしまいました。私は想像していた反応と違うことに戸惑いを隠せませんでした。「あ、はいそうですね。カードに…書いてなかったしあの時は先生のお話に集中できなかったので。すみませんでした」私は、主治医が「あら、書き忘れていたのですか、それはごめんなさいね」と軽く謝ってくれるのを期待していたのだと思います。主治医も謝ったらそれで安心するとすぐに気づいていてそうしなかったのだと思います。わたしの中に妹や母や夫やそんな家族と接する時の何ともいえない嫌な感じが湧き上がってくるのが分かりました。主治医はあなたがここに来たのはそれだけではないですよね、という視線を私に送っていました。
「あの日は、あれからずっと泣いていました。おかげ様で予約を早くしていただいたので退院のムンテラ作業療法士さんとの話し合いもゆっくり出来ました。退院は5月6日に決まりました。それまでに実家に外泊させて在宅の様子を見ます。時間変更していただいてありがとうございました」だんだん声が小さくなっていくのが分かりました。これから先を話すのに自信がなかったのです。主治医は「連休明けですね。そうですか」と言ってさらに私の目を覗き込むように視線を送るのです。「もっとあるでしょう」と言うように。
私は少し言葉に詰まりながら話し始めました。「最近…先生のお話に出てくる言葉に引っかかることがあります。それはわたしの中に怒りや悲しみの感情があってそう感じるのか良く分からないのですが。ここ数回の診察は、いつも先生とお話して気持ちよく診察を終えるという感じがしないのです。何か苦しくて、診察の後辛い気分になって帰ることが多くなりました。どうしてなのか、先生の言葉が突き刺さるような気分の事があります。先生の言葉が、妹や夫から言われた言葉の感じと重なって聞こえることがあります。私は…ここが、先生が心の拠り所だと思っていたのに失ってしまったような悲しい気分になっています…」
主治医は私の話にじっくり耳を傾けていたと思います。少し間を空けて主治医が答えました。「この何回か…お母さんが入院されてからでしょうね。○○さんの中にはお母さんをよく看病したいという気持ちとお母さんに対する恨みの気持ちのふたつがあって、そのふたつを両立する事は出来ないのですよ。でも割り切ることが出来ないままお見舞いを続けて疲労していましたよね。医療の立場にいるものとしては、ご家族よりも患者さんを守ります。だから『お母さんと離れてください』と言ったのですが、それが割り切った考え方をしている妹さんへの感情と重なったのでしょうね」
私は俯きながら「お母さんと離れなさい」という言葉を主治医がまず最初に発したことを驚きをもって受け止めていました。その言葉こそが最も私を苦しめた言葉だったから。主治医はそれを分かってそれでも私が壊れることを守るという医師の立場を貫いたのです。私が主治医に対して負の感情を抱いたとしても私の症状をこれ以上悪くしないほうを選んだのです。それは正しい選択だと思いました。「投影」という言葉が頭の中を駆け巡っていました。主治医は医師として当然のことをしたのです。それを私は家族への怒りや不満を投影していることに気づけなかったのです。私は自分の愚かさと主治医の医師の立場での優しさに、氷が解けていくような感じがして少し涙が出ました。私は誤解していたのです。主治医の言葉がその場をしのぐ為の言い訳だとしてもその説明は正しいと感じました。そして私は歪んだものの見方をしていたのだと。
診察の中で私はその他にも奇妙な質問をしました。主治医は「今日は何を質問されたいのですか」と一度私の頭を整理するように促しました。そして結局心の拠り所を失った悲しみを誰かに受け止めてもらいたかったのだと思いました。薬に頼ってみました。いのちの電話の番号を調べました。睡眠をとってみました。無理を強いて働こうと思ってみたりしました。けれど心の隙間を埋めることは出来ませんでした。私にはいま主治医が必要なのだと言うことがはっきりしました。だから誤解が解けてそれで良かったのです。
夫にうつ病を否定され、毎日働けと言われたのでこれから母のお見舞いもなくなって少しは楽になるのでもうひとつ仕事を入れたいという話をした時、主治医は言いました。「お母さんの退院で、介護保険が使えるようになって一段落したのです。この半年頑張ってきたのですから一度休んでください。それから仕事のことを考えましょう。薬の事も相談しましょう。医師の立場では、いまは休んでくださいとしか言えません」主治医は穏やかな表情でゆっくりと説得しているようにみえました。「もう質問はありませんか。答えていないことはありませんか」と主治医が尋ねてきました。もう、十分でした。それがいまここでの刹那的なものであったとしても、主治医が変わらず心の拠り所であることが確認できたのですから。
診察室は忙しい予約なし外来の日なのに、ゆったりとした時間が流れていました。私は主治医のオレンジ色のシャツが光の加減によって微妙に色を変えるのをぼんやりと見ながら、いつものように伝票を受け取って頭を下げました。こころが少しずつ晴れて行くのを感じながら…。