分かりあえない悲しみと仄かなあたたかさ

私は男性の医師が苦手だ。わざわざ予定を変更してまで女性医師の日に診察を受けるほど。緊張して身体が硬くなり、主訴の半分も言えないで診察が終わる事も多い。遡ってそのトラウマに触れる事は出来るかもしれないけれど多分父親が原因なのだと思う。
昨日、母の治療方針について主治医から説明があった。脳神経外科医、勿論男性だ。しかも私と同じ年齢だった事が最近分かった。
3ヶ月前、緊急入院当初の説明の時には、母の状態をしっかり頭に入れなくては、母の事を分かってもらわなくては、と色んな事が頭を駆け巡り、震える手でメモを取り、とげとげしい口調で医師に説明を求めた。私は必死だった。母がどんなに苦しい環境に置かれていたか、体調管理が難しい心理状態にあったか、そのパーソナリティーまで分かって欲しいと懸命に訴えた。母が同席していた事もあったかもしれない。母の人格全てを受け容れて欲しいと医師に迫っていたのだと思う。
あの時の主治医のオーバーな程の自信に溢れた対応は、私の必死の願いをなだめるためのゼスチャーだったのではなかったろうか。
医師と患者の出会いは、病気という不幸な出来事から始まる。患者や家族は苦しみを分かってほしいと過剰な期待を抱く。そしてその殆どは失望するのではなかろうか。
患者の全人格を受け容れて治療に当たる。それは理想だけれど、とても無理な事だと気づいたのはつい先日のことだった。医師は医師としての立場で最善を尽くすだろう。けれど患者やその家族の気持ちまで細やかに分かって治療に当たることまではとても出来ない。
医師は分かりあえない悲しみを抱えつつ、病気という不幸を背負った患者を救おうともがき苦しむのだろう。
昨日、母の今後の治療方針について主治医から家族に説明があった。
私は夕方の薬を早めに飲み、苦手な男性医師との話し合いに備えた。
その日の私は少し落ち着いていた。なぜなら、医師と患者や家族は完全に分かり合える事はないことを心に留めていたからだ。
いつもの様に主治医は他の家族より私に向かって説明をする。私は電子カルテの示されたモニタを見つめる。血液検査の推移、血圧の動向、リハビリの進捗状況、投薬の変化と量…ありったけの情報を主に私に対して開示しているように感じた。
私は不思議と男性の主治医と穏やかに接する事が出来た。だから前回のように半ばヒステリックに母を分かってもらおうという発言はしなかった。減薬の可能性、リハビリのスピード、認知症への対応、質問は現実的なものが中心になった。
医師と患者の接点は病気だ。人間として例え分かり合え無くても病気を挟んで共に歩いていく、あるいは共同作業は可能なのだ。
今回の説明を受けて、医師の側にも変化があった。母の生活史、性格への理解、早く家に帰りたいという希望に対して心理的なケアの必要性について考慮しようという発言があったのだ。主治医に対して仄かなあたたかさを感じた。
医師と患者は決して分かり合える事など無いかもしれない。けれど病気という不幸を両者が共に抱えた時、分かりあえない悲しみのなかに仄かなあたたかさが流れているのに気づくのだろう。
主治医は心配性な私のために電子カルテの検査結果を出力して手渡してくれた。その顔には、以前のような虚勢をはったような自信に満ちた笑顔はなく、肩の力を抜いたややくたびれたような微笑があった。
説明の内容は重く厳しいものだったが、私はひとつ何かを乗り越えたような清清しい気分がした。
もしかしたら、これが主治医への「信頼感」というものなのだろうか。