生命保険の受取人

会社での話し合いが終わった後、病院に行った。母は杖歩行のリハビリをしていた。母が言うように何も使わないで歩行なんて出来ていなかった。これでは今月末退院なんて無理だと思った。母は自分の現実をまだ受け容れてはいなかったんだと思った。
昨日、妹から母が2月に外泊をしてケアマネージャーが実家に来て介護認定をするような話を聞いた。まだ早い気がしたが、これは母の狂言だったことが分かった。母の主治医が回診に来たとき、母が外泊をしたいと頼んだらしい。主治医は許可はしていない。来週父と話しましょうねと言われたというのが本当の話だった。少し会わないうちに、母の言動がどんどん壊れていた。物忘れが酷くなる。話が飛ぶ。父が呆れて激しく責めると情動失禁を起こして笑い出す…私は父と母の間に入って他人が居るところでは話せないことは談話室や病室で話そうねと促した。父も疲れている。経済的にも逼迫しているのだ。母の我侭は病気の影響だ。激しく責めてはいけない。でも皆疲れている。暗く沈んだ気分に入り込む母の悲しい笑い声。
こんなに認知障害が早く進行するとは思っていなかった。ショックだった。回復する見込みはあるのだろうか。もう実家には戻れないかもしれない。
母が夕食を食べているとき、父から母の生命保険の手続きをしたいが、受取人が私になっているという話を聞いた。初耳だった。だけど、母の気持ちがその時分かった。そしてその想いが私を揺さぶって心が乱れた。
母は…返したかったのだろう。今までの入院や介護のための費用を。我侭を言う母に寄り添って病院に通ったかつての日々を母は覚えていたのだろう。夫である父でもなく、妹や弟でもなく、私にと。母が好みそうなパジャマ、母が欲しいといった本、毎日の清拭や消毒、その度に酷く我侭だった母。でも私は耐えて看護を続けた。母の居ないところで毎日泣いた。親子だから…分かっていたのだろう。「いつか利子をつけて返すから」そんな言葉を聞いたのは去年だった。その気持ちだけで十分だった。その時の母はもうここには居ない。目の前の母は少しずつ壊れて悲しそうに笑っている。
自宅の最寄の駅に着いたのは午後10時を過ぎていた。駅前のスーパーは冷たい明かりを放っていた。その光を避けるように暗い道に入り、溢れてきた涙を止められなかった。いのちをかけた感謝のきもち。そんな方法でしかきもちを伝えられなかった母が哀れで一晩中泣いていた。