主治医との距離感

診察までに時間があったので、コーヒーを買いにロビーへ行く途中で主治医が階段から降りてくるのが見えた。挨拶しようかと思ったが、その前に若い女性医師が主治医に声をかけ、立ち話になった。私はその横を通り過ぎしばらく歩いて振り返りその様子を見ていた。まるで片思いの少女が意中の男性をそっと遠くから見つめているような気分がした。ふたりはしばらく談笑していたので、思いを断ち切るように背を向けた。主治医は女性だ。私にいわゆるそういった趣味はないのだが、過剰な理想化はまだおさまっていないのだろうか。恋愛感情に似たこの気分は何なのだろう?
診察は午後の一番最初だった。この3週間は前半がうつ状態で過眠傾向、後半はいらいらが酷く不眠傾向だったこと、仕事がいつもの半分しかなく不規則だったため、生活のリズムが乱れ夫にもそのことを指摘されて辛かったことを話した。仕事ではミスが多くなり以前出来たことも困難になっていること、言葉が上手く話せずスローになってしまう、健忘が酷い、どんどん脳が衰えているようで焦りを感じると話した。安定剤は減らす意欲はあったのだが結果的に処方量より多めに飲んでいた。主治医は、安定剤は決して多い量ではないが判断力が低下していることや感情の波が大きくなっていることから、現在の安定剤を感情調整剤のようなものに切り替えたほうが良いのではないかと提案した。リーマスが使えればベストではあるが、過去に処方され副作用で中止した経緯があり、私自身は拒否はしなかったが主治医の判断で抗てんかん剤のリボトリールを試してみてはどうかということになった。私もこの軽そう状態が苦しく健忘も怖かったので服用に同意した。急にマイナーを止めると不安だろうからと安定剤は頓服として処方された。
前回から懸案になっていた夫婦面接というか主治医から夫への説明の日程を仮予約した。11月の予定だったが早まった。夫が退職の意思があることを伝えると時期的に微妙なので早めに説明したほうが良いとの主治医の判断だった。つい昨日の話。「これからどうやって生きていこうかと…」と言って私は苦笑した。主治医も一緒に笑ってくれたが、「それはむこう(夫)が考えるべきことですね」と言い添えた。なぜそんなことを言ったのが暫く分からなかったが、後で考えると夫の人生は夫のものなのだと、妻である私であっても踏み込んではいけないものなのだと言いたかったのかなと思った。自分が不幸だと嘆くことなかれ。本当に辛いのは夫自身なのだ。病気で辛い私の気持ちを夫が理解できないように、夫が仕事で苦しんでいることを私は正確に理解することなんて出来ない。ただ寄り添って支える努力を惜しまないようにすることぐらいしか出来ないのだ。私は恵まれている。主治医が中立の立場を取るとしても客観的に病気のことを夫に説明してくれるのだから。
「どうなることやら…」と主治医がぼそっと言った。「そうですね本当に」と私も同情して顔を見合わせて笑った。片思いは変わらないけれど、今の距離感がちょうどいいような気がする。言葉がなかなか出なくてやや焦りながら話したが、処方や説明のスタンスなどお互いに相談しあって決めていった。自分の要望も主治医の考え方も治療関係の中での対等な立場で話が出来たと思う。